さゆろぐ

50代の難病患者(SLE・SJS・うつ併発)の生活・・・全身性エリテマトーデス(SLE)・シェーグレン・うつ他

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樹木希林さんの訃報で自宅での看取りを改めて思い返しました。

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こんばんは。さゆです。

 

樹木希林さん。お疲れさまでした。

闘病中もひょうひょうとしてらして

いつまでも病気と併存して、女優を続けてくださるものと錯覚していました。

 

ご冥福をお祈り申し上げます。

 

自宅での看取り

 

そして内田也哉子さん。

自宅での看護と介護。

お疲れさまでした。

 

ただただ、尊敬です。

ゆっくりするのはまだ先になるでしょうが、

どうぞ、心と身体を十分に休ませていたわってください。

 

私の「母を自宅で看取る」は失敗してしまった。

樹木希林さんの自宅闘病に関しては

すごく気になっていました。

家族が海外生活をしている中、也哉子さんだけが日本に残り

自宅闘病をささえていると知ったから。

 

実際には、樹木希林さんのスタッフさんとかヘルパーさんなど

助けはあったかと思います。

 

でも、やっぱりつらいんですよ。

自宅で看取るっていうのは。

 

私の母も「自宅で最期を迎えたい。」と言いました。

はじめの頃は、抗がん剤治療のたびに入院・退院を繰り返し、

症状に合わせた治療を受けるために、転院もしました。

 

そのころから、私は母の介助として治療に協力していましたが

実のところ、自分もSLEが診断されてからまだ3か月後。

しかも、実家の稼業の経理を母の代わりに任せられ

一人事務。

 

早朝にある程度仕事をし、母の通院に付き添い、

戻ってからまた深夜まで仕事。

入院中は、抗がん剤治療で食がすすまない母に

「好きなおかずを作ってくるよう」に看護師さんにいわれて

早朝から料理して届け、昼休み時間にまた料理して病院に届ける。

といった、休みなしの生活を送っていました。

 

症状が進み治療ができなくなると、自宅で訪問看護を受けました。

レンタルでベッドやリフト・車いすなどを借りて

介護や清拭の仕方を教わり、仕事をしながら母と向き合ってきました。

 

3階建ての会社兼自宅。

3階に母が。

2階は事務所。

玄関は1階。

 

母が吐き戻し、会社の電話が鳴り、来客が・・・

そんなときも一人です。

きつかった。

 

私も母の希望は叶えてあげたかった。

 

でもね・・・

ある日、意識がなくなった母。

眠っているわけでもない。

 

訪問看護師さんに電話をしました。

そこから急展開。

 

救急隊員の手によって、母は病院に搬送されました。

 

この後、亡くなるまでの数か月

母は一度も家に戻ることはなかったです。

 

その後も、高校生に戻った母から、病院のスタッフから

電話で呼び出しを受け続け、病院からは24時間体制で付き添えと言われ・・・。

どん詰まりでしたね。

 

介護保険が認定されたのは亡くなった後。

制度は実情に合っていないと、しみじみ思い知らされました。

 

母は、脳にも転移していて目も見えなくなり

高校生戻り、たまに正気に戻ったときには痛みを訴えていたけれど

別世界にいる時間が長くて、本人にとってはよかったかもしれません。

 

でも正気の時は言っていましたね。

「死にたい。いつまで生きなきゃいけないの?」

これは祖母もずっと言い続けていて、

母や兄弟たちは、「そんなこと言って。」と相手にしていませんでしたが

結局母も同じことを言っていました。

これには答える言葉がなかったです。

 

そして実は・・・最近私も思っています。

「いつまで生きなきゃいけないのかな?」

 

 

 

 

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