梅雨らしいお天気です~。
ダルダルな、さゆです。
頭痛で耳鳴りならぬ、幻聴が・・・
体調が悪いと、精神も不安定に。
今日も、お坊さんが元気に渋く「読経」しています・・・。
どこか遠くで。
いえ、幻聴なんですけどね。
たぶん、聴覚過敏が変なふうに働いて
家の中の家電とか、いろんな周波数とか
ぐちゃぐちゃに混ざって、そんな風に聞こえるんだろうな。と。
人の話し声はうまく聞き取れないのに、お坊さんの声は聞こえる。
まぁ内容までは、分からないんですけど。
ダルダルすぎて、目まで霞んでいたので
今日も!おとなしくしていました。
カーテンの洗濯は、この天気ですし。
諦めましたよ~。
さきほどから少し、Netでニュースを見ていました。
昨日の新幹線といい、10年前のアキバの事件といい
なんだか外に出たくない。って思わせるような怖い内容。
その中で、こんな記事を見つけました。
アラフィフ界の超新星?
まずは、下記のニュースをどうぞ。
<51歳の挑戦>高校教員辞め看護学校入学 京都の岡田さん
「高齢者のために役立ちたい」と話す岡田九季さん=塩田敏夫撮影
(
)京都府京丹後市久美浜町の岡田九季(くき)さん(51)が今春、府立久美浜高を最後に29年間務めた高校教員(国語科)を辞した。府立看護学校(与謝野町)に入学し、看護師を目指し勉学に励んでいる。高齢化が進む地域社会で、医療の分野で役立ちたいと一念発起した。目指すは在宅・訪問看護だ。【塩田敏夫】
岡田さんは大阪府枚方市出身。母親は花子さん。花を支える「くき」になってほしいと「九季」の名前が付けられた。そして、1年に九つの季節があることが感じられるような豊かな感性を持ってほしいとの願いも込められた。
小学校の時、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を読み、賢治の童話が大好きになった。京都教育大に進み、卒業論文は「宮沢賢治の童話研究」を選んだ。1989年に卒業し、1年間大阪府内の高校の常勤講師を務めた。翌年から京都府立の高校教諭として採用された。
初任地は久美浜高だった。その後、網野、峰山、加悦谷高と丹後の学校に勤務し、13年から再び久美浜高の教壇に立った。カヌー部の顧問としても活動し、忙しい日々を送り始めたが、「久美浜高が教員生活としてのゴールになるだろう」と直感した。
それは人生の中で最も活力があり、のびしろがある高校生を相手にするのは久美浜高が最後になるとの思いだった。「自分は前に出て生徒を引っ張っていくタイプ。知力、体力は定年の60歳までは持たないだろう」との感覚を抱いた。また、15年に初めて学年部長に指名され、今春まで3年間務めた。教員として学年全体を見る責任ある立場に置かれ、精いっぱいやるだけのことはやったとの思いもあった。
教員を辞める選択に家族は反対だった。これまで地道に積み上げてきた教員としてのキャリアを考慮し、「もったいない」との意見だった。しかし、最後には「自分の人生だから自分で選べばいい」と背中を押してくれた。
府立看護学校(3年制)の入学試験は社会人枠ではなく、一般入試で挑戦し、合格した。久美浜高で生徒指導に集中し、受験勉強の時間はほとんど取れなかったが、試験前の冬休みに集中的に勉強した。
府立看護学校のモットーは「人間愛」。哲学をはじめ、幅広い教養科目から物理、実習と密度の濃い授業が続く。予習、復習は欠かせない。今春まで教えていた18歳の生徒が多い同級生と机を並べるが、「ほとんど違和感はない」と笑顔を見せる。
岡田さんは「これまでは高校の教員の仕事があり、家族のことは二の次、三の次でした。まだ小学4年生の次男がおり、これからの人生は力をかける割合を自分なりに考えていきたい」と話す。
看護学校を卒業したら数年間は病院に勤務してさまざまなキャリアを積みたいと考えている。そして、将来は在宅・訪問看護の仕事を目指す。「体の続く限り働き続けたい。地域のために役立ちたいと思います」と語った。
一般入学は15名ですって!
学費は府立なので、安いという事ですが・・・。
偏差値は、高いとのこと。
大卒での入学組も多いそうです。
今年10歳のお子さんがいるのも驚きましたが、次男。
何人、お子さんがいるのかな?
それにしても、驚きの行動力。
この記事読んでいて、
高校三年の時の、担任の先生を思い出していました。
進学校なのに、大学受験するでもなく。
地元伝統校でもあるので、就職先の斡旋も
大手はムリでも恵まれていた我が校。
受験期には、職員室の壁には
進路の決まった生徒の名前が
進路先と共に貼り出されていました。
専門学校。それも学校法人化したばかりの
アナウンス学校。
そこに入学することは伝えていましたが、
私の名前は貼りだされず、
卒業名簿にも記載されませんでした。
先生にとっては、困った生徒の代表格だったのかもしれません。
近年は、近隣の高校と合併してから、偏差値がだた下がり・・・。
伝統校ながら、超不人気校。
だからかな?
私の行った専門学校へ進学した生徒も
HP上に公表されていました。
専門学校の認知度が上がったのか?
沢山の芸人さんが卒業されています・・・。
私の頃は、なかったよ?その学科。
そして、高校の格式が下がったのか?
その担任は40代の女性教諭でした。
年齢は定かでないのですが、
私たちの受験期のころに、妊娠し流産されていたんです。
それを知ったのは、卒業後。
クラスの男女7~8人が、先生のお宅に招待されました。
特に仲良しとも言えない組み合わせ。
どうして呼ばれたのかな?と思いましたが、
先生の中で、思いの深い生徒たちだったのかもしれません。
その時に先生のお子さんにも会いました。
小学校高学年から中学一年?くらいの男の子。
挨拶だけで部屋に籠ってしまいましたが、
利発そうなかわいいぼうやでした。
その先生が50歳を機に、公務員を辞め
中国へ留学しました。
中国の学校の寄宿舎に住んでいると
話を聞いてびっくりです。
なんで、そんなこと知っているんだろう私?
それも先生から直接聞いたような気がします。
その頃、息子さんは大学生だったかな?
今はどうなさっているんだろう?
50歳って、やっぱりいろいろな転機、きっかけ?
になる年齢なんですね・・・。
私にとっての50歳は、
やばい!やばいよ!
仕事が見つからなくなっちゃうよ!
という想い出です。
得た資格で、奇跡的に就職できたものの
現状は・・・療養中。
人生、ずいぶん違いがあるものだ・・・
と思いつつ、また沈みます・・・。